静寂という重荷
朝食の片付けをする私の背後で、がさり、と夫が新聞をめくる音が響いた。まるで枯れ葉が風に舞い散るような、乾いた音。健司が定年退職してから、この静寂は鉛のように重さを増した。リビングのソファに深く身を沈めた彼の存在が、澱んだ空気となって部屋を満たしている。
ガチャリと食器が触れ合う音だけが、まるで時計の秒針のように、この凍りついた時間をかき混ぜる。
私の手は機械のように動き続ける――34年間、一日として休むことなく。
私が最後の皿を拭き終えた、その時だった。新聞から目を離さずに、健司が言った。
「お茶、まだか?」
その何気ない一言が、まるで小さな氷の欠片のように私の胸に刺さる。彼にとって、妻が家事をすることは、息を吸うのと同じくらい「当たり前」なのだ。
34年間――12,410日間、一度としてその労働に疑問を抱いたことも、感謝の言葉を口にしたこともない。
長年の立ち仕事で鈍い痛みを訴える腰を、私はそっと掌でさすった。この小さな痛みこそが、私の生きてきた証であり、誰にも認められることのなかった勲章だった。
窓の外では、桜の花びらがひらり、ひらりと舞い落ちている。美しくも儚い、まるで私の青春のように。
この静けさが、やがて来る嵐の前触れだとは、この時の私はまだ知る由もなかった。
価値を否定された日
ある晴れた午後、私は庭で丹精したバラの話を健司にしていた。陽光がレースのカーテンを透けて、部屋を柔らかな金色に染めている。
「見て、この新しい品種。淡いピンクの花びらが、まるで絹のヴェールのように幾重にも重なって、本当に綺麗なのよ」
私の瞳に宿った輝きを、健司は見ようともしなかった。退屈そうな相槌を打つだけで、やがて深いため息をついた。まるで重い荷物を背負った登山者のように。
「毎日毎日、やることがなくて退屈で仕方がない。会社に行っていた頃が懐かしいよ」
そうこぼす彼に、私は「あなたも何か趣味を見つけたら?」と提案した。その瞬間――時が止まったような瞬間――健司は私を見下すような目で見つめ、吐き捨てるように言ったのだ。
「君はいいよな。何の心配もせず、俺が稼いだ金で家のことだけやっていればよかったんだから。気楽なもんだ」
雷に打たれたような衝撃。全身の血の気が引いていくのがわかった。世界から音が消え、目の前が真っ白になるような感覚。34年間――12,410日、約30万時間――家族のために捧げてきた私の日々。子育てに追われ、家事に追われ、自分のことなど後回しにしてきた歳月。
そのすべてが、たった今、「気楽なもの」という鋭利な刃物のような一言で、塵のように吹き飛ばされてしまった。
絶望と、そして氷のように冷たく、しかし炎のように燃える怒りが、心の底から込み上げてきた。健司のその一言は、私の中で曖昧な霧のように漂っていた不満を、初めて「離婚」という鮮明な選択肢へと変える、冷酷な引き金となったのだった。
窓の外では、バラの花びらが一枚、また一枚と地に落ちていく。まるで私の涙のように。
静かなる準備
健司が寝静まった深夜、私はリビングの小さな明かりだけを頼りに、ノートパソコンを開いた。まるで秘密の日記を書く少女のように、心臓の鼓動が聞こえるほど静かな夜。
検索窓に打ち込むのは、「60代」「女性」「仕事」「自立」といった言葉たち。しかし、画面に映し出される現実は、まるで氷河のように冷酷だった。34年間の専業主婦という経歴は、社会では「空白の砂漠」と見なされた。資格も特別な技能もない56歳の女は、まるで古い新聞紙のように「価値のない存在」なのだと思い知らされる。
保証人がいないという理由で、アパートを借りることさえ困難。現実という名の高い壁が、何度も私を打ちのめした。
ある日、私は結婚して独立した娘に、それとなく胸の内を打ち明けた。
「お母さんがこれまでやってきたことって、社会では何の価値もないみたい…」
すると娘は、電話の向こうで太陽のように明るく、きっぱりとした口調で言った。
「何言ってるの、お母さん。社会での価値って何よ。お父さんが仕事、仕事って外のことだけ見てられたの、誰のおかげ?お母さんがこの家を全部一人で守ってきたからじゃない。それって、誰にでもできることじゃない。すごいことだよ、絶対に」
娘の言葉は、砂漠に降る恵みの雨のように、乾いた心に染み渡った。
そんな中、私はインターネットで「家事代行サービス」という仕事の存在を知る。そこには、私が長年培ってきた経験を宝石のように大切にしてくれる人たちがいた。これまで塵芥のように無価値だと思われていた自分の技術が、誰かの役に立ち、金貨のような価値を持つかもしれない。
暗黒の洞窟の奥に、一筋のダイヤモンドの輝きが見えた瞬間だった。
具体的な一歩を踏み出す時が来たのだと、私は静かに、しかし確固とした意志で覚悟を決めた。
私の「仕事」
家事代行サービス会社に隠れて登録し、初めて依頼主の家に向かう日、私の胸は期待と不安で、まるで恋する少女のように高鳴っていた。新しいワンピースに袖を通した時のような、身が引き締まる緊張感。
しかし、ひとたび仕事に取り掛かると、私の身体は水を得た魚のように、まるで生まれ変わったかのように動き出した。長年の経験で培われた手際の良さ、汚れやすい場所を先読みする鷹のような洞察力、使う人の心地よさを考えた繊細な気配り。それらは、私が意識することなく発揮できる、私だけの「魔法」だった。
仕事を終え、家が見違えるように綺麗になったのを見て、依頼主の若い女性は瞳を星のように輝かせた。
「わあ…!ありがとうございます!自分では気にもしていなかった窓のサッシまでピカピカで…。まるで新築のお家みたい!ここまで丁寧にやっていただけるなんて。高橋さんに頼んで本当によかったです。さすが、プロの仕事ですね」
その心からの感謝の言葉は、まるで温かなハーブティーのように、私の胸の奥深くに響いた。結婚生活では一度もかけられることのなかった、宝石のように輝く言葉。初めて自分の労働に対して、直接的な評価と感謝を受け取った感動に、思わず涙がこぼれそうになる。
数日後、初めて振り込まれた給与明細を手にした時、私は結婚生活では決して得られなかった「生きる喜び」と、シャンパンの泡のように軽やかに弾ける「幸福感」を、確かに噛みしめていた。
無償で当たり前だと思われていたこの仕事で、黄金のような正当な対価を得ることの意味。それは、私が社会の一員として、一人の人間として認められた証だった。
自分の足で、ちゃんと立っていける。その確信が、まるで鋼鉄のように私を強くした。健司にすべてを話す日を、私は心に刻んだ。
離婚届という給与明細
夕食の片付けを終えた後、私はいつものようにソファでテレビを見ている健司の前に、まるで舞台に立つ女優のように、静かに立った。
「あなたに、話があります」
改まった私の口調に、健司は訝しげな顔でテレビのリモコンを置いた。その視線を受け止め、私は冷静に、しかし毅然とした態度で切り出した。
「離婚してください」
健司は一瞬、雷に打たれたような顔をした。そして、まるで子供をあやすかのように馬鹿にして鼻で笑う。
「何を寝ぼけたことを言っているんだ」
私はその反応を、まるで微風のように意に介さず、続けた。
「あなたにとって、私の34年間は『気楽な専業』だったかもしれません。でも、私にとっては…一日も休みのない、終わりのない戦いでした」
短い沈黙の後、私は深く息を吸った。まるで深い海に潜る前のように。
「掃除しても、洗濯しても、すぐにまた汚れる。食事を作っても、食べれば消えてしまう。そんな、まるでシシュフォスの岩のように、誰にも褒められることのない、切りがなく終わりのないことばかり…。それを、私は34年間――12,410日間――たった一人で続けてきたんです」
そう言って、私はテーブルの上に、まるで最後の切り札のように、一枚の紙を置いた。すでに私の署名と捺印が済んだ、真っ白な離婚届だった。
健司の顔から笑みが氷のように消える。私は、彼の目をダイヤモンドのように真っ直ぐに見つめて、最後の言葉を告げた。
「これが、私の34年分の働きに対する、私自身からの退職金であり、給与明細です」
健司の顔が、まるで季節が変わるように、驚きから怒りへと変わった。何かを叫ぼうとして、しかし、私の本気の目に射すくめられたように言葉を失う。
彼の瞳に映るのは、もはや彼の知っている「当たり前」の妻ではなかった。彼が初めて、妻という存在の価値と、これから失うものの計り知れない大きさに気づき始めた瞬間だったのかもしれない。
私は静かに立ち上がり、彼に背を向けて自分の部屋へと歩き出した。もう、振り返ることはなかった。まるで新しい人生への扉を開くように。
新しい朝
あれから、数ヶ月。私は新しいアパートの一室で、まるで生まれ変わったかのように目を覚ました。窓から差し込む柔らかな朝日が、まるで希望の光のように部屋を優しく照らしている。
キッチンに立つと、コーヒーミルが軽やかに豆を挽く音、ポットからお湯が注がれる優雅な音、そしてトースターがチン、と焼き上がりを告げる軽快な音が、まるで小鳥たちのさえずりのように響く。
自分のためだけに丁寧に淹れるコーヒーの香りが、穏やかで自由な時間の始まりを告げていた。黄金色に輝くその一杯は、まるで私の新しい人生そのもの。
家事代行の仕事は、今や私の誇りだ。依頼主からの「ありがとう」という言葉の一つひとつが、まるで宝石のように私を力づけてくれる。今日も3件の予約が入っている。1時間あたり2,500円――これが私の市場価値だ。
一方、かつての我が家に一人残された健司は、散らかった部屋でまるで迷子の子供のように途方に暮れているだろう。慣れない手つきで洗濯機を回しながら、これまで妻が文句一つ言わずにこなしていた家事の、その膨大さと終わりのなさを、身をもって実感している頃だろう。
私はカップを片手に、窓の外に広がる青い空を見上げた。まるで無限の可能性を秘めた宇宙のように広がる空。過去への後悔も、未来への不安もない。ただ、ダイヤモンドのように輝く今があるだけだ。
「私の人生は、これからが本番だ」
心の中でそう呟くと、新しい一日が始まる希望に、胸がシャンパンの泡のように軽やかに満たされていくのを感じた。
窓の外で、桜の新芽が小さく芽吹いている。まるで私の新しい人生のように、これから美しく花開いていくのだろう。
終わり
あとがき
この物語は、多くのシニア女性が経験する「見えない労働」の価値と、何歳からでも始められる新しい人生についての物語です。主人公の勇気ある決断が、多くの女性の心に響くことを願っています。人生に遅すぎることはありません。あなたの経験と知識は、必ず誰かの役に立つのです。
次回は「家事労働の価値の再定義:「見えない労働」から尊重されるべき専門性へ」と題して、今回のお話をもとに論理的に考察してみたいと思います。
お楽しみに。
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