青いノートの記録・言葉の暴力と闘った1,460日

ひとみ朗読カフェ

語り:黒川ひとみ

序章――氷の階段

皆さん、こんにちは。黒川ひとみです。今日も「ひとみ朗読カフェ」にお越しくださり、ありがとうございます。

人生の午後を迎えた頃、私たちの心には不思議な重みが宿ります。それは若い日には感じなかった、時間の重さです。

今日お話しするサトコさんは、六十二歳。彼女の家の階段は、一階と二階を結ぶ普通の階段でした。

けれど私には、それが南極大陸を横断する氷の壁のように見えたのです。

サトコさんは一階で暮らし、夫は二階で暮らす。同じ屋根の下にいながら、二人の間にはマイナス三十度の冷気が漂っていました。

第一章――言葉という凶器

最初の亀裂が入ったのは、結婚十五年目の秋でした。

サトコさんの実家は、この町で三代続く老舗の呉服店。格子戸のある立派な日本家屋でした。

夫の健一は婿養子として迎えられ、最初の数年は礼儀正しく、優しい男性だったといいます。

けれど、何かが変わったのです

「お前の友達、うるさいな」

ある日、サトコさんが高校時代の友人を招いてお茶を楽しんでいると、夫は二階から降りてきて、こう言い放ちました。友人が帰った後、サトコさんは謝りました。

「ごめんなさい。次からは気をつけるわ」

「気をつける? いや、もう呼ぶな」

夫の声は、錆びた鉄を引きずるような音でした。

それから夫の言葉は、日を追うごとに鋭さを増していきます。

「この味噌汁、昨日と同じだな。芸がない」

「俺がこの家に来てやったから、お前は生活できてるんだ」

「お前の笑い声、耳障りだ」

サトコさんは、一日平均7回、夫から何らかの否定的な言葉を浴びせられるようになりました。

彼女は手帳に、密かに印をつけていたのです。一週間で49回。一ヶ月で約210回。一年で2,555回。

二十年で51,100回

五万回を超える否定の言葉が、彼女の心に降り積もりました。それは雪崩を起こす前の、危険な雪庇のようでした。


第二章――沈黙という決断

転機は、ある冬の夜に訪れました。

娘の美咲が就職で家を出る日。サトコさんは駅まで見送りに行きました。ホームで、美咲は母の手を握りしめて言ったのです。

「お母さん、私ね、ずっと怖かった。お父さんが、いつかお母さんを壊しちゃうんじゃないかって」

美咲の目には涙が浮かんでいました。その瞬間、サトコさんの心に稲妻が走りました

私は、娘に何を見せてきたのだろう

電車が出発し、美咲の姿が小さくなっていく。サトコさんは凍りついたホームに立ち尽くし、初めて自分の人生を客観的に見つめたのです。

その夜、夫が「飯はまだか」と怒鳴った時、サトコさんは何も答えませんでした。

「聞いてるのか!」

沈黙。

夫は不機嫌そうに舌打ちをして、二階へ上がっていきました。

それが、サトコさんの静かなる革命の始まりでした。

彼女は夫と話すことをやめました。

必要最低限のこと――食事の用意、洗濯――は続けましたが、会話はゼロ。

夫が何を言っても、サトコさんは磨き上げられた鏡のように、ただ無表情で光を反射するだけでした。

最初、夫は怒りました。けれどやがて、妻が「従順になった」と勘違いしたようです。

実は、その沈黙の裏で、サトコさんの心は激しく燃え始めていたのです。


第三章――秘密のプロジェクト

サトコさんが私の相談室のドアをノックしたのは、沈黙を始めて半年後のことでした。

六月の午後、紫陽花色のブラウスを着た彼女は、椅子に座るなり、こう切り出しました。

「先生、私、離婚したいんです。でも、どうすればいいか分からなくて」

彼女の手は小刻みに震えていました。その震えは、恐怖ではなく、解放への期待で震えていたのです。

「サトコさん、離婚は戦争です」

私ははっきりと言いました。

「特に熟年離婚は、お互いに退けない領土がたくさんある。感情だけでは勝てません。緻密な作戦と、揺るぎない覚悟が必要です」

「私、覚悟はあります」

サトコさんの目が、琥珀のように硬く、透明に輝きました。

その日から、私たちの秘密のプロジェクトが始まりました。

まず、財産の把握。

サトコさんは夫が仕事に出ている間、書斎に忍び込みました。

手が震え、心臓が太鼓を叩くように鳴り響きます。もし見つかったら――。

けれど彼女は、引き出しから通帳を取り出し、スマートフォンで撮影しました。

普通預金、定期預金、株式。夫名義の資産は予想以上でした。

次に、不動産登記簿。

法務局で取り寄せた書類には、この家が元々サトコさんの父親名義で、後に夫婦共有名義になっていることが記されていました。

「これは、私の武器になりますか?」

「立派な武器です」

私は微笑みました。

そして最も重要なのが、証拠の記録でした。

サトコさんは、夫から浴びせられた暴言を、日付、時刻、場所とともに、青いノートに几帳面に書き留めました。

「2023年8月3日 19時15分 台所にて『お前の作る料理は犬のエサ以下だ』と言われた」

「2023年8月7日 7時30分 玄関にて『お前の顔を見ると気分が悪くなる』と言われた」

ページは、毒の記録で埋まっていきました。

けれどそれは同時に、サトコさんの解放への地図でもあったのです。

この作業は、まるで深海に潜って宝を探すダイバーのようでした。

息が続かない苦しさ。けれど、確実に目標に近づいている実感。

準備期間は、三年と十ヶ月に及びました。

その間、サトコさんは何度も心が折れそうになりました。

「先生、私、悪いことをしているんじゃないでしょうか」

ある日、彼女は泣きながら言いました。

「サトコさん、あなたは自分の人生を取り戻そうとしているだけです。それは、生きるための正当な権利です」

私は彼女の肩を抱きました。


第四章――宣戦布告の夜

全ての準備が整ったのは、四度目の冬でした。

弁護士との打ち合わせも完了し、離婚調停の申立書も用意されています。

サトコさんは、最後の勇気を振り絞る日を選びました。

十二月十五日。夫の誕生日の前日。

その夜、いつものように夫は無言で食卓に座り、サトコさんが用意した鍋料理に箸をつけました。

サトコさんは、静かに箸を置きました。

「あなたに、話があります」

夫は顔も上げず、「何だ」と面倒そうに答えました。

「離婚したいの」

時間が止まりました

夫の手が、空中で固まります。それから、ゆっくりと顔を上げ、目を見開きました。

「は? 今、何て言った?」

「離婚します。私、あなたとは、もう暮らせない」

サトコさんの声は、冬の澄んだ空気のように、透明で揺るぎないものでした。

夫の顔が、見る見るうちに赤く染まっていきます。

「ふざけるな! 誰のおかげで生活できてると思ってる! お前なんか、一人じゃ何もできないくせに!」

怒鳴り声が、家中に響き渡りました。

けれどサトコさんは、もう怯えていませんでした。

彼女は夫の目をまっすぐ見つめ、四年間温め続けた言葉を、一語一語、刻むように言い放ちました。

「私は、あなたの家政婦じゃない。私は、私自身の人生を生きる。来週、弁護士を通じて離婚調停の申し立てをします」

「お前、何を――」

「二十五年間、6万3,875回の否定的な言葉を浴びせられました。全部、記録してあります」

夫は言葉を失いました。

「それに、財産も全て把握しています。あなたの隠し口座も、株も、全部」

夫の顔から、血の気が引いていきます。

「まさか、お前が――」

「そう。四年かけて、準備しました

その瞬間、サトコさんの体に稲妻のような解放感が走りました。

それは、長年の鎖が断ち切られる音でした。魂が、自由を叫んでいました


第五章――嵐の中の闘争

サトコさんの予想通り、離婚は泥沼の闘争となりました。

夫は弁護士を立て、「妻が一方的に家を出ていく」「妻には精神的な問題がある」と主張しました。調停は決裂し、裁判へ。

法廷で、夫の弁護士はサトコさんを攻撃しました。

「奥様は、ご主人に対して何の相談もなく、秘密裏に離婚の準備をされた。これは背信行為ではありませんか?」

サトコさんは、毅然と答えました。

「相談できる関係なら、離婚を考えません」

「しかし――」

「二十五年間、私が夫に相談して、まともに取り合ってもらえたことが一度でもありましたか? 私の言葉は、いつも否定され、嘲笑され、無視されました」

サトコさんは、青いノートを取り出しました。

「これが、その証拠です」

裁判官が、そのノートに目を通します。ページをめくるごとに、その表情が曇っていきました。

闘いは、一年半に及びました。

その間、サトコさんは何度も心が折れそうになりました。夫からの嫌がらせ、親族からの説得、世間の目。

「離婚なんて、恥ずかしい」

「この歳で一人になって、どうするの」

「もう少し我慢すれば」

けれど、サトコさんには、支えがありました。

娘の美咲は、母に言いました。

「お母さん、頑張って。私、ずっとお母さんの味方だから」

私も、定期的にサトコさんと会い、励まし続けました。

「サトコさん、あなたは誰よりも勇敢です。諦めないで」


終章――解放の朝

判決が下ったのは、春の訪れを感じる三月の朝でした。

「離婚を認める」

裁判官の言葉が、法廷に響きました。

財産分与として、サトコさんは家と預金の半分を得ることになりました。

夫には、四百万円を支払って家を出ていってもらうことに。

判決の日、法廷を出たサトコさんの顔は、まるで桜の花が開くように輝いていました。

「先生、私、自由になれました」

彼女の目から、一筋の涙が流れました。それは悲しみの涙ではなく、喜びの涙でした。

数ヶ月後、私はサトコさんから一通の手紙を受け取りました。

「先生へ

家は、今、とても静かです。でも、その静かさは、以前の冷たい沈黙とは違います。

春の朝の、優しい静けさです。

庭の梅の木が、今年は見事に花を咲かせました。この木、二十年以上、一度も花をつけなかったんです。不思議ですね。

私も、この梅の木と同じだったのかもしれません。長い冬を耐えて、やっと、花を咲かせる春が来たのです。

先生、ありがとうございました。

これからは、私自身の人生を、思いきり生きてみます。

サトコ」


エピローグ――あなたへのメッセージ

サトコさんの物語は、私たちに大切なことを教えてくれます。

人生に、「遅すぎる」ということはないのだと。

六十歳でも、七十歳でも、自分の人生を取り戻すことはできるのです。

けれど、それには準備が必要です。感情だけでは戦えません。冷静な戦略と、揺るぎない信念が必要なのです。

そして何より大切なのは、心の奥底に眠っている「諦め」を「決意」に変える勇気です。

もし今、あなたが暗いトンネルの中にいるなら、覚えておいてください。

トンネルには、必ず出口があります。

そして、静かに準備を始めたその日が、あなたの新しい人生の第一歩なのです。

サトコさんは今、自分の庭で、梅の花を眺めながら、紅茶を楽しんでいます。

その笑顔は、六十年の人生で、最も美しい笑顔だと、私は思います。

次回も「ひとみ朗読カフェ」でお待ちしております。

どうぞ、あなたの心に、小さな勇気の種が芽吹きますように。

ありがとうございました。

――終――

ひとみ朗読カフェ
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この記事を書いた人
黒川ひとみ

【ひとみ朗読カフェ】を運営。日常に、もう一度、心躍る瞬間を合言葉に、人生を豊かに歩んできたシニア世代の皆様へ、現役世代の方々にも、忘れかけていた甘酸っぱい思い出や、胸が高鳴るような新たな感情を呼び覚ます恋愛、人生訓、ほっこり短編小説をお届けするカウンセラー。心地よい語り口と、物語に寄り添う穏やかなBGMに乗せて、まるでラジオから流れてくる物語

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