大人の淡い再会
「店長、私……初恋の人に、もう一度会いたいんです」
そう言った女性に、私は一杯のブラックコーヒーを差し出しました。
「このコーヒーを飲めば、会えますよ」
「本当に?」
「ええ。ただし……」
私は、少しだけ笑って言いました。
「会えるのは、あなたが会いたかった『あの人』とは限りません」
30年ぶりの同窓会。
そこで再会した初恋の人。
そして一杯の、不思議なコーヒー。
これは、30年前に置き忘れてきた恋を、もう一度拾い上げた女性のお話です。
それでは、本日のお話は、私、店長・黒川ひとみがお話いたします。
『初恋を映すコーヒー』
佐伯美奈、52歳。
その日、美奈の郵便受けに、一枚の葉書が入っていた。
淡いクリーム色の同窓会案内。
卒業して30年。
高校三年生だった自分が、もう52歳になっている。
美奈は葉書を指先でなぞった。
紙の手触りは、昔の卒業アルバムによく似ていた。
そして名簿の中に、一つの名前を見つけた。
――高橋恒一。
美奈の胸が、ほんの少しだけ跳ねた。
まるで、長い眠りについていた古い時計が、一度だけ、
「カチッ」
と動いたように。
恒一。
高校時代、美奈が初めて好きになった人。
放課後の教室。
窓から差し込む夕焼け。
机の上に置かれた、読みかけの文庫本。
そして、いつも少しだけ笑っている恒一。
美奈は、30年前の記憶を胸の奥から取り出した。
けれど、すぐに蓋をした。
「もう、昔のことよ」
そう呟いた。
結婚して、子どもを育てて、仕事をして。
人生は、一本の長い道のように続いてきた。
途中で振り返ることなど、ほとんどなかった。
ただ――。
最近、美奈は時々思うのだった。
「私の人生って……これでよかったのかな」
夫に不満があるわけではない。
子どもに不満があるわけでもない。
仕事も、それなりにやってきた。
けれど、何か一つ。
名前のつかないものが、心の隅に残っていた。
それが何なのか。
美奈自身にも分からなかった。
同窓会当日。
ホテルの宴会場には、30年分の時間が並んでいた。
昔は長かった髪が短くなった女性。
白髪が増えた男性。
高校時代は目立たなかったのに、今では会社の社長になった同級生。
逆に、昔はクラスの人気者だった人が、静かに壁際で酒を飲んでいる。
30年という年月は、人を変える。
それは、秋の木の葉に似ていた。
同じ木なのに、季節が変われば色が変わる。
美奈もまた、変わっていた。
鏡の中の自分を見て、
「誰?」
と思う瞬間がある。
そんな美奈の目が、突然止まった。
会場の奥。
窓際に、一人の男性が立っていた。
少し猫背。
髪には白いものが混じっている。
昔より、ずっと細くなっていた。
でも。
笑ったときの目元だけは――
あの頃と同じだった。
「……高橋くん」
声に出すつもりはなかった。
それなのに、名前がこぼれた。
男が振り向く。
そして目を見開いた。
「……佐伯?」
美奈は笑った。
「久しぶり」
「30年ぶりだな」
「うん」
二人は笑った。
その笑顔は、不思議なくらいぎこちなかった。
30年前なら、何時間でも話せた。
なのに今は、天気の話や仕事の話。
子どもの話。
健康診断の話。
「血圧、大丈夫?」
「まあ、今のところは」
そんな話ばかりだった。
二人とも、肝心なことを避けていた。
――あの頃。
あなたは私を好きだった?
その一言だけを。
同窓会が終わったのは、夜の10時過ぎだった。
美奈は一人で駅へ向かった。
冷たい夜風が頬を撫でる。
すると、駅前に見慣れない小さな喫茶店があった。
看板には、白い文字で、
「Cafe 黒猫」
と書かれている。
こんな店、ここにあっただろうか。
美奈は、なぜか足を止めた。
そして店内へ入った。
カラン……。
古いドアベルが鳴る。
店の中は、琥珀色の照明に包まれていた。
時計は、壁に一つだけ。
針は午前零時を指している。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥には、黒い服を着た年配の女性がいた。
「ブラックコーヒーを」
美奈が注文すると、女性は静かに微笑んだ。
「今日は、普通のコーヒーではないほうがよさそうですね」
「え?」
「30年前に置いてきたものを、見てみませんか?」
美奈は思わず笑った。
「そんなコーヒーがあるんですか?」
「ありますよ」
女性は、黒いコーヒーをゆっくりとカップへ注いだ。
コポコポ……。
立ち上る湯気が、白い雲のように揺れる。
「ただし、一つだけ」
「何ですか?」
「これを飲んだら、思い出が一つ、消えます」
美奈の笑顔が消えた。
「……消える?」
「はい」
「どんな思い出が?」
女性は答えなかった。
ただ、
「それは、飲んでみれば分かります」
と言った。
美奈はカップを持ち上げた。
コーヒーの表面が揺れる。
そして――。
黒い水面に、何かが映った。
夕焼け。
赤く染まった教室。
窓際に立つ、制服姿の少年。
高橋恒一。
30年前の彼だった。
美奈は息を呑んだ。
「……恒一くん」
映像の中の恒一が、誰かを待っている。
何度も時計を見る。
そして、教室の入り口を見る。
その顔には、今まで見たことのない緊張が浮かんでいた。
やがて恒一は、ポケットから小さな紙を取り出した。
そして、それを握りしめた。
美奈は気づいた。
あの日。
恒一は、自分を待っていた。
映像の中の彼が、ゆっくり口を動かす。
声は聞こえない。
でも、美奈には分かった。
「好きだ」
そう言っている。
美奈の胸が締めつけられた。
30年前。
自分は、ずっと彼に振られたと思っていた。
だから忘れようとした。
大学へ進み。
仕事をして。
恋愛をして。
結婚して。
母親になった。
30年間。
一度も、
「あの日、本当は何があったのだろう」
とは考えなかった。
考えないようにしていた。
ところが。
コーヒーの中の映像が突然、途切れた。
真っ暗になった。
そして――。
美奈は、頭の中に違和感を覚えた。
「……あれ?」
恒一の顔が、思い出せない。
さっきまで、あれほど鮮明だったのに。
目元は?
鼻は?
髪型は?
思い出そうとしても、ぼんやりしてしまう。
「どうして……」
店主は何も言わない。
美奈は震える声で尋ねた。
「私、忘れたくないんです」
「そうでしょうね」
「じゃあ、どうして……」
店主は静かに答えた。
「人は、思い出を大切にしすぎると、今を見られなくなることがあります」
「……」
「その人を忘れるためではありません」
店主は、美奈を見つめた。
「その人を好きだった『自分』を、そろそろ許してあげるためですよ」
翌朝。
美奈は同窓会で撮った写真を眺めていた。
すると、スマートフォンに一件のメッセージが届いた。
差出人は、恒一だった。
《昨日、話せなかったことがある》
美奈の心臓が、ドクンと鳴った。
《30年前のこと、覚えてる?》
指が止まった。
そして次のメッセージ。
《俺、あの日、君に告白するつもりだった》
美奈の目から、涙が一粒落ちた。
でも、まだ続きがあった。
《でも、父親が倒れて、病院に行ったんだ》
美奈は息を止めた。
そのときだった。
30年前の記憶が、一気に戻ってきた。
あの日。
自分は教室で恒一を待っていた。
待って。
待って。
結局、来なかった。
そして、
「きっと私は、好きじゃなかったんだ」
そう思った。
でも違った。
恒一も待っていた。
美奈を好きだった。
二人とも。
好きだった。
ただ。
たった一日。
たった数時間。
人生の歯車が、ほんの少しだけずれていただけだった。
その日の夕方。
美奈は恒一と会った。
喫茶店で向かい合う二人。
30年ぶりの沈黙だった。
恒一が笑った。
「俺たち、30年も遠回りしたな」
美奈も笑った。
「そうね」
「もっと早く言えばよかった」
「今さら?」
「今さらだな」
二人は笑った。
そして恒一が言った。
「あの頃、好きだった」
美奈は答えた。
「知ってる」
「え?」
「昨日、思い出したの」
二人は、また笑った。
けれど。
美奈は気づいていた。
もう、自分の中に高校時代の恒一の顔はほとんど残っていない。
不思議だった。
あれほど忘れたくなかったのに。
でも。
目の前にいる恒一を見ると、少しも寂しくなかった。
白髪もある。
目尻には深い皺もある。
昔よりずっと老けている。
それでも。
笑ったときの目元だけは、あの頃と同じだった。
美奈は思った。
初恋とは。
叶わなかった恋のことではない。
30年経っても消えない恋のことでもない。
きっと。
誰かを初めて好きになったときの、
あの柔らかい気持ち。
誰かに大切にされたいと思った気持ち。
誰かを大切にしたいと思った気持ち。
そして。
何も知らなかった自分を、信じていた時間。
それこそが、初恋なのだ。
美奈は、帰り道の夕焼けを見上げた。
空は、30年前と同じような赤だった。
けれど、自分はもう高校生ではない。
52歳の自分が、そこにいる。
「ありがとう」
誰に言うでもなく、美奈は呟いた。
するとスマートフォンが鳴った。
恒一からだった。
《また、コーヒーでも飲まない?》
美奈は少し考えてから、
《今度は普通のコーヒーでね》
と返信した。
そして、ふと笑った。
【エピローグ】
その夜。
駅前を歩いていた美奈は、ふと足を止めた。
昨日の喫茶店があった場所。
そこには――
何もなかった。
古びた空き地だけ。
店の看板も。
ドアも。
あの黒い服の店主も。
最初から存在しなかったように。
美奈は首を傾げた。
そして、ポケットに手を入れた。
何かが指に触れた。
取り出してみる。
小さな紙だった。
そこには、見覚えのない文字で一言だけ書かれていた。
――「ごちそうさまでした」
美奈は笑った。
そして、その紙を大切に財布へしまった。
30年前の恋を、財布にしまうように。
その夜から、美奈は少しだけ人生が楽しくなった。
朝、鏡を見る。
目尻の皺を見つける。
以前なら嫌だった。
でも今は違う。
「これも、悪くないか」
そう思える。
そしてある朝。
美奈は鏡の中の自分に向かって言った。
「おはよう」
鏡の中の自分も、
少しだけ笑った。
その笑顔は――
30年前の、美奈自身と同じだった。
ひとみ朗読カフェ店長ひとみ
初恋の人に会いたい。
そう思うことは、過去に戻りたいということではありません。
もしかすると私たちは、
「あの頃の自分」に、
もう一度会いたいだけなのかもしれません。
若かった自分。
夢を見ていた自分。
誰かを好きになることが怖くなかった自分。
もし、あなたにもそんな人がいるのなら。
今夜だけは、少し思い出してみてください。
そして最後に一言。
「よく頑張ったね」
そう言ってあげてください。
きっと、その人は――
あなた自身なのです。
それにしても、30年って長いですよね。
30年前だったら、携帯電話も今みたいじゃないし。
SNSもない。
好きな人に連絡するだけでも、今よりずっと勇気が必要だったでしょうね
でも、人を好きになる気持ちは、時代が変わっても同じなのかもしれない。
このお話は、最後のところが好きでした。
『初恋の人』に会う話だと思っていたら、
実は『昔の自分』に会う話だったんですよね
人は年齢を重ねると、若い頃の自分を恥ずかしく思うことがあるでしょう?
でもね。あの頃の自分がいたから、今の自分がいる。
だから、過去の自分を笑うのではなく、
『あの頃も、よく頑張っていたね』
と声をかけてあげる。
それだけで、少し人生が優しくなることがあります」
もし『初恋の人』に、今さら会えたら……
「まず、コーヒーを一杯ご馳走してもらおうかしら」
「30年分の利息込みでね」
「店長、最後に現実的!」
「さて、常連のお客様。あなたには、今でも心に残っている『あの人』がいますか?」
「もしよかったら、コメント欄で教えてください。
名前を書く必要はありません。
『昔、こんな恋をしていました』
それだけでも結構です。
誰かの思い出を読むことで、
あなた自身の忘れていた記憶が、そっと目を覚ますかもしれません」
「そして、このカフェが気に入っていただけたら――」
「チャンネル登録をして、またお越しくださいね」
「次はどんな物語が待っているんでしょう?」
「それは、ご来店いただいてからのお楽しみ」
「それでは、本日の一杯はここまで。
また、いつでもお待ちしております」

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